考える場所

ココロとカラダ、思考する全部

活字を避けて自由を考える

ゴールデンウィークに実家へ帰ったとき、活字を意識的に避ける、ということをやってみた。ノートパソコンを持たないようにしたし、本も持たない。携帯はさすがに要るから持ったけどなるべく見ないようにした。持って行ったのはカメラとレンズだけ。

やってみてまず思ったのは、気がついたら携帯を持ってTwitterのアイコンをタップしてしまっているということ。ハッとしてすぐに閉じるのは1度や2度ではなかった。

それで、やってみてどういう意味があるのかということを考えてみる。活字のほとんどはノイズみたいなもので、必要ないから取り入れない、そういう感じに慣れる、のかなと考えた。それもある。欲しくなったとしても、なくたって困らない。なきゃないで過ごすことができるのだとういうことは、当たり前ではあるが、この身体がそうできるのだと知った、という意味はある。

しかしもっと大きな意味があった。自分の感覚に気がつく。自分は思っていたよりも活字を渇望しているし、取り入れるように手が勝手に動いてしまっているということ。なぜかと考える。どういうときにどうして手が動くのかと考えてみる。安定を欲しているのかもしれない。居場所なのかやり場所なのか、受けたからやる、をするために受けようとしているように見えた。

仕事中にも思う。「このWebストレージにあります」と言われてURLをクリックする。画面はログインを要求するから、これに応じるのだけど、ログイン後のトップページを見てしまっているから、なぜこのページを見ているのかということが頭から飛ぶ。いや、飛ぶというか、もともとないのだ。URLをクリックして、目的のファイルを目にすることを期待しているから、何をするのかを頭に置いていない。目的のファイルを目にすれば次何をするのかは想起することができて、手を動かせる。そういう情報の落とし方、省き方を、結構やっているのだと気がつく。

それで、たとえば、気がついたらTwitterを見てしまっているなどというのは、反射的な身の振り方をし過ぎてしまっていて、それはあまりにも不自由なんだろうなと思う。居場所とかやり場所とかって言葉を選んだのはそういう訳で、どこかに身を置くって姿勢になってるんでしょ。それはやっぱり自由なことではないよね。そんなことは自分で決めたいものだ。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。

ずっとやりたかったことを、やりなさい。