考える場所

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ココロとカラダ、にんげんのぜんぶ

エンジア派遣をやっているような会社には帰社っていう謎の集会があって、帰社日だって言って月一で仕事を放り出すんだよね。ITのエンジニアって客先常駐がよくあることだから、定期的に集まって情報共有するっていうのが建前になっているのだけれど。情報共有っていったいなんだろうね。社会人になってやたら聞くことになったワードのひとつだけど、意識高そうな割には漠然としてるなって思う。だからやっぱり帰社だってそうなの。ぼんやりしてる。

そういう帰社を評価基準に組み入れようとする動きがあったものだから、その帰社日のときに口を出してみたわけ。仕事が忙しくて帰社できない人もいる。自分の裁量でどうすることもできないなんてことは普通にあるし、これを評価しちゃうっていうのはどうなのって。その対象が1年目2年目の若手だって言うから、そりゃあさすがにかわいそうでしょうと。そうしたら誰かが「せめてウェイトを変えられるようにしてはどうか」っていう案を挙げたりもして。でも回答はのらりくらりで次の帰社日でもそのことについての言及はなかった。さすがにひどいなと思って「帰社ポイントを設けようとしながら帰社で出た意見をないがしろにするとはどういう了見か」なんて噛みついてしまった。

このあと結構めんどくさいことになったんだけど、気がつけたこともあって、結果的にはまあよかったかなと思ってる。事実も意見も感情も別けることができたって、それがやっぱり指摘である以上、言われた側は指摘されたって思っちゃうんだよね。人格を否定せず、行動だけを指摘する、というのがよりよりやりかたであることは理解できるけど、だからと言ってそれで相手が、そうですか、なんて受け入れてくれるとは限らない。ああ反発に根差して反論されちゃってるなって見えたら、もうこれ以上は自分の問題ではないと思えて、なんだか意気消沈してしまった。はじめて勝ち負けに執着しない、怒りの抑制みたいなことができたようにも思えたわけ。これがよかったこと。

人の振り見て我が振り直せとは言うけど、実際、人の振りを見ることができるのって、我が振りを直せて初めてなんじゃないかって思う。どんな人の振りを見ても、それが自分と同じ枠組みならおかしいとは思えないし、思ってもいつの間にか同調しちゃうでしょ。ああそのやり方はおかしいよなって気がつけたときにはそれをしていないか、あるいはしないだけの素養があるからで。最近カメラを始めて、いつも見ていた景色が違って見えることに気がついたんだけど、カメラのことをまるで知らなかったっていうわけじゃないんだよね。違うのは実際にファインダーを覗いて、シャッターを切って、写真の出来栄えを見て、っていうことを実際にやってるからなんだと思う。情報として何かを知るということが気づきに直接結びつくわけじゃない、ということだって、からだでやってみせるから分かることなんじゃないかな。

ちなみにカメラはキヤノンのEOS Kissである。