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「できる男」は高いスーツを着るのか

「できる男」というようなスーツをまとった人を見て、ああできる男っぽい、と思う。「できる男の」系のハウツー本にもやはり靴にこだわるとか高いスーツを着るだとかは書いてあって、そういうものが自信につながるということもなんとなく分かる。というか、想像することはできる。実際、ルノアールのような喫茶店へ行けば、「できる男」の身なりをした人が目を光らせた若者を食い物にしている光景を目にすることができる。あのように自信ありげに振舞うことができることはすごいし、身なりへの感覚が、本人にしても若者にしてもあって、お互いに煽り合っているようでもある。

そういう、身なりをするべき、というようなハウツーは反応が割れる。確かにそのような自信を得ることができそうだし、見られ方も変わるから大事なことだ、とするのが一方。あくまで中身が大事なのであって、身なりをどうかすることに意味はない、とするのが一方。まあ、実はそんなことが言いたいのではなくて、そういう、一次元的なものの見方をすることはよくない、というか疲れてしまうなと思うようになった。すごくできる人なのに身なりや振舞いで損しているよなという人もいれば、身なりばっかり整えてそれだけだよなという人だっている。であれば、「できる男の」身なりをする、ということだけを取り上げて良いとか悪いとか論じようとすることに無理があるのだと思えないといけない。

要するに、その場であったり、その人であったり、その関係であったりするところで、こうすることだってできるよね、というのなら建設的であるというのか、先へ向かった言い方なのだと思う。一片にだけフォーカスしてああだこうだと言ったところで、何かできてるわけじゃないと顧みることができるようにはなっておきたい。ただ結局は自分がどうなっていたいかということだけなのであって、丸の内や六本木を闊歩するならそれなりの格好はするだろうし、それでも中身が大事だっていうならスウェットで歩けばいいんじゃない。いいんだろうけど、変わってるなと思われるようなことは理解しておくべきだし、そういうのが本当に自分のなりたいありようなのかっていうことも考えられなければそれは滑稽だよね。ひねくれてるだけになってないか、ということ。これが逆でもやっぱり同じことでしょ。

まあ、合コンでもあれば多少のおめかしはするよね。