読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

考える場所

ココロとカラダ、思考する全部

「思う」と「考える」

「思う」と「考える」は何が違うのだろう。ブログのカテゴリを整理していて疑問になった。「思う」も「考える」も脳の活動であることに違いはない。思考だ。両方の字を使う。しかし違うように思う。同じであると言われたら、そうではないと言いたくなる。違うんだ。

言葉をもってしてもコミュニケーションというは難しい。言葉の捉え方は人それぞれである。しかし「思う」と「考える」にはおよそ共通したイメージがあるようだ。「思う」が感情的であるのに対して「考える」が論理的であるということ。それでもやはり腹落ちしないからこの質問があるのだろう。同じようにこの質問にたどり着くのだろう。だから別のモデルが要る。

スティーブン・R. コヴィー『7つの習慣』にある第一の習慣は「主体性を発揮する」だ。「私はプログラムではなくプログラマーである」という考え方である。この本の好きなところはこの第一の習慣に入る前にかなりのページを割いて人格について説いているところだ。インプットとアウトプットの間に「私」を置く。それではじめて「私である」と言うことができる。「私」はルールベースの反射であってはならない。人格が最重要であるとする理由である。

これを踏まえて、「思う」をレシーバー、「考える」をアクチュエータとして捉えることを考えた。「思う」は刺激(インプット)を受けて動く自分のことを言う。刺激があって「自分がこう動いた」と言うことがメッセージの主題である。 「考える」は動いた自分が反応(アウトプット)することを言う。外界に対して「こう干渉する」あるいは「こう定義する」と言うことがメッセージの主題である。つまり発信する側のメンタルに依存する。述べたいことが自分の感じ方そのものであれば「思う」である。一方、述べたいことが自分の行為や対象の外界であれば「考える」である。とする。

ある論文でこう書かれているのを見つけた。

つまり、「考える」が主体の意志的な行為を表しているのに対し、「思う」は主体の内的な変化を表しているということである
- 高橋圭介『引用節を伴う「思う」と「考える」の意味』

学術者が同じような向きの定義をしているのに安心した。「思う」が内向きのこと、「考える」が外向きのことであるとする定義は的外れではなさそうだ。